会員コラム 第2回 L嘉悦洋

生と死を分けた運命の99日 雲仙普賢岳災害の教訓

L嘉悦

悲劇は、突然起きた-1991年6月3日午後4時8分。超高温の火山灰やガスが、悪魔のような速さで山を駆け下り、消防団員、警察官、タクシー運転手、現地住民、火山学者、報道関係者を次々に飲み込んだ。死者・行方不明43名。20世紀末最大級の自然災害となった、長崎県雲仙普賢岳の大火砕流である。

だれも予測できなかった惨事

私は当時、九州の地元紙の本社社会部の記者だった。雲仙普賢岳を望む島原市に入ったのは1991年4月下旬。正直、あのような大惨事が起きるとは想像もしていなかった。犠牲者の中に、世界的に有名な火山学者も含まれていたように、当時、あのような大火砕流が起きると明言した人は一人もいなかった。むろん危機意識はあったが、「死ぬかもしれない」と思うほどの深刻さはなかったのである。

むしろ、地元の新聞である私たちは、地元の人々に深刻な影響を与えていた土石流や噴火被害を取材し、避難民の皆さんの大変な生活環境や安全確保、彼らの希望、要求をきめ細かく伝えていくことに、報道の力点を置いていた。まさか「自分たち自身に危険が迫っている」などとは、思ってもいなかった。

①第1次取材本部前。まだ危機感が乏しかった

地獄絵図と化した現場

惨劇の日となった6月3日は、たまたま、新しい取材基地が完成した日であった。私の会社は、被災地エリアに最大級の取材陣を送り込んでいた。各社の報道陣が犠牲となった「定点」と呼ばれる火砕流撮影ポイントにも、当然ながら常に記者、カメラマンが交代で張り込んでいた。

しかし、この日午後4時から、新しい取材基地で、今後の取材について全体会議を開くことになっていたため、わが社の記者、カメラマン、運転手らは、全員が危険なエリアから麓に戻ってきていた。これが、わが社がただ一人の犠牲者も出さずにすんだ「奇跡」の理由だった。

私は、午後4時少し前に、新しい基地に到着した。すると、突然、真新しい基地の床下から、イタチ、ネズミ、蛇、その他の小動物が次々に現れた。その瞬間、何とも表現しようのない、胃が冷たくなるような異様な恐怖に襲われた。爆発音も、衝撃波も、何も感じないのに、である。

そのうち、空の一点に黒い雲のようなものが現れた。「あれは、何だ?」。思ったのも束の間、あっという間に、空一面が真っ黒になり、視界がゼロになった。「とんでもないことが、起きてるぞ!」。記者もカメラマンも、一斉に基地の外に飛び出した。その時、すでに大惨事は起きてしまっていたのだった。

救急車、消防車、パトカーのけたたましいサイレンが鳴り響く。あちこちで火の手が上がる。一帯は、阿鼻叫喚の地獄図であった。

②火砕流で事態は急変。熱い灰で頭髪が燃えることもあり、タオルをかぶっている

犠牲者が運び込まれる病院は、まさに戦場だった。真っ黒に焦げた遺体を乗せた担架が次々に到着する。その担架が、燃えている。看護師が火を消そうとして水をかけた瞬間、水蒸気爆発のような現象が起きて、あらゆるものが飛び散った。私の着ていた服は穴だらけになった。高熱で気管支をやられた。目もかすむ。しかし、なぜか痛みは感じない。取材基地に戻って、ワープロの前に座った時、自分もやけどをしているのに気付いた。同僚も、ぼろぼろの状態である。すべての記者が、目の前で起きている惨事を伝えようと、必死に、その時できることをしたのである

③午前1時、2時まで、必死に原稿を書き続けた

「これは、死ぬな」と思った瞬間

世に知られる大火砕流は6月3日。しかし、私たちが、「死」というものを、自分の事として実感したのは、それから数日後のことだった。毎日徹夜状態での取材が続いていたある夜、またも噴火が起きた。激しい噴火で吹き上げられた火山弾(高温のがれき)が、私たちの取材基地を直撃した。「ドガーン」「ドガーン」。基地の屋根に、壁に、火山弾が落下、衝突する。「屋根が突き破られたら、死ぬぞ」「外は、もっと危険だ。絶対出るな」。同僚の絶叫が取材ルームのあちこちから上がる。脇を見ると、同僚が、机の下に潜り込み、ワープロを抱えて、記事を書いている。対面では、同じく机の下で、必死にメモを取っている同僚も。後日聞いたら、「メモじゃなく、遺書を書いていたんだ」と打ち明けられた。それほど、「死ぬ」という実感があったのだ。私も「これは、死ぬかもしれんな」と思った。しかし、人間とは、ああいう局面になると、茫然としてしまい、意外に恐怖感はないんだなあ、とも思った。

あの惨事から学んだことは、「自分の浅薄な経験や、思い込みに流されてはいけない」ということ。そして、「情報は、常に多角的に検証を続けなければならない」ということ。そして、いつ、いかなる時でも「現場感覚を大事にする」ということである。

事故後、当時の週刊誌は「現場の記者は、火砕流という言葉すら知らなかった。勉強不足」と批判したが、実は、どの新聞社、テレビ局の記者も、知っていた。ただ、言葉としては知っていたが、どこかに「大丈夫だろう」という、根拠のない、安易な思い込みが、私にはあった。また、「もし最大級の火砕流が起きたら、どのような被害を及ぼすのか」という情報の検証が足りなかった。

大火砕流発生前の気象庁の会見では「高速高温の火砕流にはならない」「珍しい現象ではない」「突拍子なことは起きない」という、楽観的な予測が発表された。もちろん、それを鵜呑みにしたわけではなかったが、結果として、あの惨事を予測することはできなかった。それは、大きな悔いとして残っている。

ライオンズの一員として

あの日、新しい取材基地が完成していなかったら、自分はいつものように、現場で取材をしていただろう。そして、火砕流に巻き込まれて死んでいたかもしれない。

今でも、火砕流に襲われる夢を見て、汗びっしょりになって飛び起きることがある。今、自分が生きているのは、全くの偶然である。「生かされている」という気持ちが、私の中に強くある。

あれから20余年。当時と今とでは、私の生活環境は大きく変わったが、あの日を忘れたことはない。時折、現地を訪れては花を手向け、犠牲者の冥福を祈る。

ライオンズクラブの一員としても、やれることは何でもやりたいと思っている。あの時、あの場所で起きたことを、ライオンズクラブの活動の中で、何らかの形できちんと伝える。アクティビティでも、交流会でも、いろんな機会に、自然と人間の共生について、自然の恐ろしさについて、人間の驕りの怖さについて、一つの「情報」として、次代につないでいくこと。それが、縁あってライオンズクラブに席を置くことになった自分が果たす役割だと思っている。

情報の検証を怠らず、現場感覚を大事に。経営者となった今でも、私が「現場主義」と口を酸っぱくして話し、従業員に嫌がられながらも(?)現場に首を突っ込むのは、あの未曽有の経験によるものだ。

犠牲者の御魂、安らかに

1991年7月。本社から、被災地からの帰還命令が下りた。現地最後の夜、近所の住民の方から、差し入れをいただいた。食料も潤沢には手に入らないだろうに、私たち記者のために、地魚や、畑で採れた野菜で作った煮物、ビールまでいただいた。それを、皆さんと一緒に食べ、この未曽有の災害について、深夜まで語り合った。

そういえば、住民の方たちは、よく取材基地を訪ねてこられた。その理由を聞いた。あるお年寄りが言った。「地元の人間でも、ここから逃げていった人が多いのに、あんたたちは、仕事とはいえ、こっちにずっと寝起きして、私たちのために、記事を書いてくれる。どんな人たちかな、と思って、顔を見たかったんよ」。すると別のおばあさんが「そうそう。あんたたちが逃げだしたら、それこそ、島原は終わるっちゅうことやろう。夜遅くまで、このプレハブの電気が灯っているのを見たら、安心して眠れるんよ」と笑った。

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翌日。私は、だれもいない早朝、噴煙おさまらない現場を後にした。住民の皆さんの顔をみたら、感情を抑えられないだろうと思ったから。

4月に現地入りして99日がたっていた。